彼女等は仲が好い二羽であった。
かといってそれは馴れ合いでもなく、きちりと喧嘩もする―――正しく仲の好い二羽がその群
れにはいた。
一羽は翼を持つものでありながら飛ぶことが苦手であり、そのことから仲間から疎ましく思わ
れることもあった。
だが、その分よく気をきかせる娘であったので誰も彼女を群れから追い出そうとはせず、それ
どころか彼女を好いているものもそれなりにいた。
もう一羽は空に愛され、彼等の象徴とも言えるような一羽だった。
彼女のその翼は美しく、空を舞う姿はよく心を動かし、老年のものからも尊敬されるような娘
だった。
今はもう私たちの国には住んでいない者達。
これは彼らが姿を消す、その狭間の出来事。
彼等は自然の中で普通に暮らしていた。
飛べぬ彼女は養われねば生きてはゆけなかったが、持ち前の気配りのよさで仲間と同じように
暮らしていた。
飛べる者達が狩をしている間、彼女は休んでいるもの達と一緒に喋り、子守りをし、近場の餌
を採っていた。
本当に、ごく普通に暮らしていた。
何物も壊れるのは唐突だ。
そして、生活でさえも壊れることは、ある。
あるとき、狩のために飛んでいった者たちが大きく数を減らして帰ってきた。
出かける時には、その薄朱い翼で空を染めるほどもいた彼らが、今では両の手で数えられるほ
どしかいなかった。
帰ってきた者達の中にも傷を負ったものや、咳き込み苦しむものがちらほらと見られ、それら
は皆、今にも命が掻き消えてしまいそうであった。
居残っていた者達は満身創痍の彼らを休ませることも忘れ、何が起こったのかを聞こうとした。
彼等は何が起こったのかという不思議と恐怖で一杯だったのだ。
比較的元気であった一羽が、彼等の恐慌を遮るように大声で一鳴きした後、簡潔にこう言った。
「時代が変わってしまった」と。
まず、渇きを癒そうと里の小川に降り、水を飲んだ仲間が突然苦しみだし、死んだ。
水には特に変わった様子は見られなかった。
しかし、これは間違いなく毒であった。
なぜ?
この水は人も飲む水であろうに―――
一同を動揺が包み込んでいると、今度は空を飛んでいた者達が乾いた音とともに次々と地に落
ちていった。
人々が、携えた銃によって彼等を撃ち落としていた。
もちろんこれまでも同じように人に獲られることはあった。
だがそれは人間たちの気紛れであり、彼等も少々のことは仕方がない、と思っていた。
ほかの野の者も狩られることはある、人間も食わねば生きていけないのだから。
そのはずだったのだ。
だが、今は明らかにおかしい。
こちらを狙う銃口の数が信じられぬほどに多い。なんとしても落とそうという執念が感じられ
た。
自分のものだ、と争う者達が居た。空から見ていて、悲しくなるほどに醜かった。
それは、気紛れで我等を獲ろうとするいつもの人間達ではなく、確かな目的を以って我等を狩
ろうとする人の集団であった。
恐ろしかった。
人は我等を己の贄にしようとしているのだろう。
我等の身を包む毛皮を剥ぎ取り、肉を食らおうとしているのではなかろうか?
そうだ、彼等には狼という前科がある。
我等も彼等と同じ位置に立たされてしまったのだ。
これではこれまでのように悠々と飛ぶことなどできはしない。
里に降りる生活を続けるのは無理だろう。
そして、それだけではない。
あの執念だ、奴等はやがてここにもやってくるだろう。
我等は未来を選ばねばならなくなったのだ……
結局、彼等は里の際での生活に見切りをつけ、森の深くのさらに深い場所、決して今の人の手
が届かぬ場所へと向かっていった。
かつて、人々が自ら切り離した場所へ……
此方では失われた者達の住まう場所へ……
記憶の底に眠る――――幻想の場所へ……
しかし、そこに残ろうとするものもいた。
それは察しの通り、あの彼女である。
彼女は自ら足手まといであることを認め、ここに残ることを決めたのだった。
翼をはためかせ、飛び立っていく彼等。
もちろん、彼女と別れることを惜しむものも少なからずおり、彼女の頭上でくるくると輪を描
いていたが、それらも彼女の微笑を見るとひとつ涙を流して飛び去っていった。
群れは、皆そこから去った。
そこに残ったのは彼女ともう一羽だけ。
……そう、もう一羽だけいた。
そのもう一羽は彼女の親友であった―――美しい翼を持っていた彼女だった。
だが彼女は友情によって残ったわけではなかった。
彼女も先の涙を流したものと同じく、名残惜しみながらも飛んでいくつもりだっただろう。
……その翼が動くならば。
そう、空に愛されていたはずの彼女は、飛べなくなっていた。
彼女は、撃たれることが怖かった。
そんなことは誰も一緒だったが、彼女は人間に最も近く触れ合っていたのだ。
人の手から食べ物を与えられたこともあった。
その、やさしかったはずの人間達が、私達を撃とうとしている。
それは彼女にとってあまりにも衝撃的だったのだ。
一日中震えつづける友人をどうしたものかと飛べぬ彼女は考えていた。
人間たちが来るまでは、私達は生きつづけることはできるだろう。
ここには仲間たちが残していった食料がある。
しかし、彼女は私と違い、翼を広げることさえできれば再び飛べるのだ。
こんなところで私と運命を共にさせるわけにはいかない。
彼女は再び友人を飛べるようにするにはどうすればいいのか、考え続けた。
彼女を飛ばそうとしつづけたが、彼女は翼を開くことすらなかった。
次第に、苛立ちを覚えるようになってしまった。
そんな毎日がどれほど続いたのだろう。
ついに彼女は意を決した。
あなたは……空を飛ぶものの誇りはどこへいってしまったの!?
あんなに飛ぶことを誇りと思っていたあなたが今では私より情けなく見えるわ!
でも、飛びたくないの、私は人間たちに撃たれることがとてつもなく恐ろしいのよ。
撃たれるのが恐ろしいならその翼で逃れることを考えなさいよ!
「象徴」と呼ばれたあなたがなんでここに残っているのよ!?
だめなの、彼等は遠くから届く銃を持っているのよ。
空に舞えば、落とされる……
こんなところまで届くわけないじゃない!
……わかったわ、なら私があなたの代わりに飛んであげる。
撃たれるかどうか、見ていなさいな。
賭けだった。
これで自分が飛べれば、彼女も一緒に付いてきてくれるかもしれないという淡い期待だった。
もちろん、彼女が付いてきてくれるかどうかはわかったものではなかったし、何よりも自身が
どこまで飛べるか……いや、飛ぶことができるのかすらわからなかった。
無言で、彼女は飛ぼうとする友を見つめていた。
翼を広げ、ぎこちなく羽ばたき、飛ぼうとする飛ぶことの苦手な彼女。
彼女が飛ぶことができれば、多少の希望は湧くかもしれない。
そう、自分で言いながらわかっていた。
人間達の銃がこんなところまで届くはずはない。
見つけられてすらいないのに、届くはずがないのだ。
ただ、あの親切な老人が敵に回ったということと、この友人がなすすべもなくあの亡者たちに
捕らわれるのは、信じたくなかった。
―――そして、彼女は飛んだ。
ぎこちなく羽ばたきながら、空を暴れるように飛んだ。
その舞に美しさはなかったが、その舞を見るだけで元気付けられるほどに力強かった。
ほら、飛べたわ!
さああなたも飛びなさいよ!一緒に……きゃあっ!!
落ちていく、私の小さな希望が落ちていく。
彼女を下に落としてはいけない!
無心に、彼女を助けようとした。
懐かしい、感触だった。
―――彼女は、下から私を見上げていた。
飛ぶことを忘れかけた翼では、どうにもならなかった。
今、彼女は荒い息で地の上に伏せっている。
悔しく、情けなく、涙があふれてきた。
でも彼女は、
やったわね……飛べたじゃない……これで…安心だわ……
なんで、あなたはこんなときにでも私を思うのよ……
それは…友達だからよ……友情は愛より太いってね……あははっ
馬鹿よ……あなた馬鹿よっ!
あなたがいなくなったら意味がないじゃない!
そのとおりだった。
悔しくて仕方がなかった。
彼女と一緒に仲間のところまで飛んでいきたかった。
泣きたかったが、ここで笑みを絶やすわけにはいかない。
大丈夫よ…私がいなくても…あなたは飛べるわ……
飛べない、飛べないわよ……私は、あなたがここに……っ!
突然だった。
脇の木の陰から出てきた猫が、あっという間に倒れている友人を咥え、連れ去っていく。
彼女はどうしようもできず、立ち呆けていた。
連れて行かないで、彼女を私から持って行かないでよ……!
猫は、離れたところで立ち止まってこちらを振り向き、ひとこえ、「にゃあ」と鳴き再び走って
いった。
彼女を、守ってやってよ。
……なぜ私がそんなことをせねばならん?
あなたは普通のものじゃないわ。
そうでしょ?
……
私の命の代わりに、彼女を守ってあげて。
……よかろう。
あれがあそこを動かぬ限り、私はあれを守ってやろう。
動かぬ限り、だ。
それでよいな?
ありがとう。
無気力に過ごした。
結局彼女は再び翼を開くことは叶わず、ここにいた。
もう、どれだけ時が経ったかも覚えていない。
人の足音が聞こえてきても、逃げようとせずうずくまっているだけだった。
しかし人は、彼女に気づかず脇を通り抜けていく。
彼女はそれを不思議に思ったが、人の姿が見えなくなると、また無気力に過ごした。
そのうち、一人をさびしく思うようになった。
人だけでなく、自分の身を狙うはずの獣たちも、私を襲わなかったからだ。
彼等は私を見ると、何かしらの反応をするのだが、いつもと違い襲おうとすることもなく離れ
ていく。
いい加減、寂しさは募っていった。
そして、その寂しさが彼女を再び里へ向かわせるのにさしたる時間は必要としなかった。
翼は動こうとしなかったが、彼女には二本の足があった。
里へついた彼女は、一人の老人と鉢合わせた。
見覚えのある、あのやさしい老人だった。
老人は懐かしげに声をあげると、やさしく彼女を抱えた。
それだけで、彼女の孤独は癒された。
これでもう、殺されてもいいと思った。
月日は経ち、私は小屋の中にいた。
人間は私を殺すことはなく……むしろ大切に扱ってくれた。
ただ、あの老人からも離された私は結局無気力であり、小屋の中から月を見上げる夜が続いて
いた。
そう、月を見ていると、安らいだ。
一日に一回、必ず月の前を一羽の鳥が飛ぶのだ。
―――ぎこちなく、力強い飛び方で。
私もできるならば月の前に行ってみたかったが、小屋の中ではそれもどうにもならなかった。
そしてある夜、一匹の猫が私の小屋の前に止まり、「にゃあ」と鳴いた。
お久しぶりです。
……そうか、わかるか。
ここにこられたということは……彼女に、会わせてくれますか?
……そうだな、よかろう。
おまえには長く楽しませてもらった。
人間たちの必至な様は見ていて面白かったよ。
私には、関係ありませんから。
くくっ……そうだな、奴等はあそこを知ることはできん。
永遠におまえが最後の一匹だと思うだろうな。
そうですね。
で、彼女に会うには?
そのまま飛べばよい。
飛べば、あの娘に会えよう。
翌朝、小屋の中には冷たくなった彼女があった。
人は悲しんだが、どうしようもないという諦めと、よくぞこれまでという感謝があった。
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すべてが終わり、彼女を土に葬ろうとしたときのことである。
突然その亡骸が燃え上がり、片方の翼だけが、燃えながら森のほうへと飛んでいった。
―――美しく舞いながら。
森の空では、丸い月が輝いていたという。
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